「現代の学者に消される代々の天皇」③

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  長い歴史の中で、多くの民族が滅んできました。例えば ミャンマーのタロン族はもう一人しか残っていないそうで す。他民族に飲み込まれていく中で、今まで多くの人達が 命がけで民族の歴史伝統文化を守ってきました。
チベット の僧侶が、中国政府に対して次々に抗議の焼身自殺をして いることはご存知と思いますが、中国は「日本という国は 50年後にはなくなっている」とさえ言っています。歴史 の中ではまさに民族のアイデンティティーを守ることは命 がけであったわけです。
テレビの番組の中で、民主党全盛期のころ、党の半分の議員が日本の国旗・国家に反対していたと報じており ました。その中には某元総理大臣もいるとの事でした。このような異常な国が何処にあるでしょうか。ベトナム戦争 は失敗だった、イラク戦争は間違いだったということで国 歌や星条旗に反対だという世論がアメリカにあるでしょう か。敗戦後は、戦前の価値観は軍国主義ということで断罪 され、否定されてきました.皇国史観の聖典である歴史書 は一切これを認めてはならず神武天皇や神功皇后は軍国主 義の象徴とされ、史上から一掃されました。何が何でも日 本書紀の内容を疑い、否認することが望ましく、進歩的でありその方向にある学説でなければ戦後の歴史学界では認 められない異常な状況が続いているのです。文献的にほとんど根拠のない、私のような素人でもおかしいと分かるような空想によって次々と歴代の天皇を架空の人物にしてし まい、歴史を改ざんしております。
一方では考古学的に文献の正しさが証明されつつあります。稲荷山古墳から出土した鉄剣には架空の天皇である はずの開化天皇の実兄の名が刻まれており、その一族の当 主の系譜も記紀の記述と一致しております。(①オオヒコ ②タカリノスクネ③テヨカリワケ④タカハシワケ⑤タサキ ワケ⑥ハテヒ⑦カサハヨ⑧オワケノオミ)これで開化天皇 の実在は証明されたはずでした。しかし、この5代までは 名前にスクネやワケなどがついておりその後の人名はついてないので、5代までは神話の世界の人でつくりごとだろ う、だから開化天皇はいなかった-------といった具合 に、いつもの根拠のない空想を働かせて存在を否定しているのです。
上宮記には継体天皇の母方の系譜に、やはりヒ コ、ワケ、ワケ、ワケと続いています、神話時代の話では ないわけです。上宮記、古事記、日本書紀、鉄剣銘文とこれだけ一致していてもやはり、憶測だけで何の根拠もなく 捏造された人物だと決めつけております。
ちなみにこの① オオヒコの弟がオオヒヒで、のちの開化天皇であります。 この天皇も現代の学者から抹殺されています。13代成務天皇は、国造や県主など地方の制度を整えたと記紀に書かれていますが、日本のような遅れた国に地方制度ができるはずがないという憶測でこの天皇も抹殺されています。しかし、同じ時代に、雄略天皇の母である大中姫が娘時代に、国造(くにのみやつこ)から、からかわれ、後にその 国造(県知事クラス)は稲置(村長クラス)に格下げさせられたなどのエピソードも日本書紀にあり、何故その時代 は地方政治もな、い遅れた状態だと断言できるのか何も根拠が示されておりません。
崇神天皇は何故か存在は認められているのですが、有名 な江上氏の騎馬民族説では、崇神天皇は大陸の騎馬民族の 首領が朝鮮半島から九州へ侵入し、各地を武力で制圧しながらヤマトに至り大王になったということになっております。しかし、東アジアのどの時代のどの文献にも騎馬民族 が日本に侵入したとは書いていません。考古学的に何の立 証もできていません。纒向遺跡などの発掘によると、ヤマトの政治は緩やかな集合体の合議制でおこなわれていたよ うです。纒向に出現した前方後円墳は、各地の弥生時代の 埋葬文化を寄せ集めて構築されたと見られています。した がって、ヤマトが、他地域からの征服によって生まれたわけではなかったことはたしかなのです。
ヤマトを建国した のは、渡来系の征服者でも、北部九州の強大な王でもありません。歴史の常識からすれば、征服者であれば外的から守るために塀や堀に囲まれた住まいであったはずです。また、宮中の行事は五穀豊穣を祈るものであり、騎馬民族の ものではありえません。このような説がまかり通ること自体がおかしいのです。
また、崇人天皇の名が「御間城入彦 (ミマキイレヒコ)」であることから、「朝鮮の任那(ミマ ナ)の城に入った人」とこじつけて、朝鮮半島から来た征 服者であると解釈しているのです。
記紀に書かれていることがすべてでっち上げで、この名前だけは何故か真実に なっているわけです。都合の悪い部分は切り捨て、都合のいいところだけ取り上げる手法はちょっと考えたらおかしいことはすぐに分かります。
神武天皇以後八代にわたる天皇がいなかったことにした理由の一つに、古墳時代の始まりを京都大学の小林行雄氏 が4世紀に設定したことが挙げられます。恥ずかしい事に 私も長い間何の疑問も持たずに教科書どおり教えてきました。何故そのように設定したかという驚くべきいい加減な 理由がシンポジウムの中で本人が語っています。
「―――考古学から言えば邪道ですけど―――崇神天皇 の推定年代に合わせるために、4世紀の初めか3世紀の末 まで古墳の発生を下げたわけです。大和朝廷というものが 成立しないと古墳が出てこないと考えたいわけです」 (『シンポジウム 日本国家の起源』角川選書)
初めから崇人天皇以前がないという前提にたっているの です。日本の史学会では権威ある先生が説をとなえると 少々疑問があってもその説がまかり通る例が多々あるそうです。しかし、考古学が進むにつれ、箸墓古墳が240- 260年とわかり、さらに、その周辺にはホタテ型古墳な ど、あきらかに箸墓より古い古墳があります。ということ になると、八代もの天皇を抹殺してしまうと200年以上 の間に二人しか天皇がいなかったことになりますが、知る 範囲では、そこのところの説明はまったくなされておりません。実際はもっと古く、やはり抹殺されている孝霊天皇 は即位B.C.290年と言われております。奈良市北葛城郡に 片丘馬坂陵が存在します。ちなみに、8人の子供をつく り、男5人のうち2人が吉備の国を平定したという記事があります。そして吉備の上道臣(かみつみちのおみ)・下 道臣(しもつみちのおみ)・笠臣(かさのおみ)という豪族の祖先であるといいます。又、別の1人は播磨の牛鹿臣 (うしかのおみ)の祖先になったとも記されております。
考古学でも、奈良の唐古・鍵遺跡や纒向遺跡と吉備との関係の深さがはっきりとしています。このようなことも捏造したと言うのでしょうか。竹内文献にはこの孝霊天皇のときに秦の徐福が天国日本の文字と歴史を奪いに来たと書かれています。
ここで述べている例はまだまだほんの一部です。イン ターネットを見ても、欠史 8代は当たり前、天皇家の 歴史にも懐疑的な記述が多く見られます。教師が教科書を 鵜呑みにし、学者の言うことだから正しいのだろうと思っている限りこの流れは止められないでしょう。うそが常識 になりつつあるのです。皇室を失えば日本の国体は失われます。スメラミコトを日本に置かれているのは天の理であります。こころある日本人が真実を伝え守っていくべき重責があると思います

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