日本の教育を思う

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  先日、アメリカの犯罪歴のある12~15歳の子達が刑務 所に体験入所した様子がテレビで放映されていました。ゲ スト出演者が色々とコメントしていましたが、私にとって は誰も触れていないある部分が大変印象深く感じました。 それは、どの子も体験後に自分の生き方や人とのかかわり 等について滔々と自分の言葉で話していることでした。一 緒に見ていた高校2年生の娘に聞いてみると、進学校である娘の学校のクラスメイトでさえこのようなことを言える 子はいないと言っておりました。この部分が日本の教育の 最大の欠点であると普段から強く感じております。アメリ カの学校で、先生が「今日は、人間が神様に会えるかどうかを話し合います。」とテーマを与えられ一時間大変な議論 を行ったことがあります。日本の大学生にこのようなテー マをなげかけたとしたら、何でそんなことを------と議論 にならないと思います。というより、ほとんど何も言えない様な気がします。アメリカやドイツなど数カ国の中学、高校の授業を見学したことがありますが、例えば「戦争・災害等で首都の機能が果せなくなったとき我々地方の住民としてまた地方の政治をになうものとしてどのような政策を行っていくべきであるか」というようなテー マの下に議論がなされ、大変興味深い内容のものもあり ました。ある本で、アメリカの教育は「将校学」日本は 「兵隊学」を行っていると述べておりました。私は経験 上でもまったくその通りだと思っております。将校は先を見通し、作戦を練っていかなければなりません。兵隊 は、言われた事、覚えたことを忠実に実行しないといけません。兵隊がそれぞれああ思う、こう思うと議論してはいけないわけです。文部省といわれていた頃の官僚と話したとき、「自分の部下は皆、東大出身で大変優秀であり、与えられた仕事は完璧にこなしていくが、何か自分達で創造的なことを行うように言うと途端に何をしてよ いか分からず戸惑ってしまう」というようなことを語ってくれました。 面接の練習をしてみればよくわかりますが、日本の子達(大人も?)はほんとうにものが言えません。どこの学校でも、こういう質問にはこう答えるのですよと教えられます。個性や自分の考えはありません。でもこれが 異常なことだと日本の先生方は気づいておりません。普段から思いを出す取り組みを行い、面接の練習でもその子の思いや志を引き出すように指導をしたところ、あなたの学校の生徒は素晴らしいとほめていただいたこともありますが、素晴らしいのでなくそれが当たり前なはずなのです。ものを言えない、将来を決めるような面接において もマニュアル通りの答えしか言えないこと自体がおかしいと気づかないといけません。 インターネットで、アメリカに留学している中国人や韓国人が日本人学生を馬鹿にしているという内容のことが書いてありました。日本人学生はただ黙って座っている だけで存在感が無いからだということらしいです。私が アメリカで最初にパーティーに出たとき、友人から、 黙って座っていてもだめだ、積極的に自分から求めていかねばならないと言われたことがあります。ラテン系の人達など巻き舌で、間違いだらけの英語でバンバンしゃ べっています。ちょっと話はそれますが日本では大学まで10年間英語を習ってもほとんどしゃべれません。昨日、来日して2年にならないノルウェイからの留学生と 話しましたが、流ちょうに日本語を話します。中学生の期末テストの回答を見せてもらいましたが、ちょっとつづりが間違えていて×、点をうち忘れて ×、等々重箱の隅をつつくような採点で英語はコミュニ ケーションの手段でなく試験で振り分けるためのものであり英語嫌いを育てていることは明らかです。 私は社会科を教えていましたが同じことが言えます。 歴史を通じて何を教えるかというような教育ではありません。日本中の教育が入試のため、進学のための勉強でしかないため多くの歴史嫌いを育てています。そうかといって入試をなくせば、今の教育内容では学生は勉強しなくなります。日本の教育は末期的であるかもしれません。 ゆとり教育の弊害がいわれています。ゆとり教育のおかげで学力が落ちたというわけです。そうかもしれません。でも、現状を知って確かな視点で問題を指摘する人はほとんどいません。最も大きな原因は教師の力量なのです。私は力量があるわけではありませんが、ゆとり教育のおかげで大変な学力をつけさせることができました。自分達で学びあい、発見し、自分達で求め、時には子ども達同士で授業をしたりもしました。実力テストにしても驚異的な平均をとる様になりました。ゆとりの時間に何をどう指導してよいか分からない教師があまりにも多かった上に、受験体制の中の受身の授業から抜け出せないまま根本的改革が行われなかったために失敗したのです。そういう私も、いきなり今まで受身の授業を行ってきた生徒達へ、ゆとりの時間を使っての指導を行ってもなかなか うまくはいかないと思います。入学した時点からじっくりと育てていかないといけないからです。力量と書きましたが実際は力量というより、じっくりと育てていく過 程を知らないのです。管理職が育てたい生徒像などを年頭に出しますがどこの学校でも文科省の言っている言葉を寄せ集めたような形だけのもので終わっています。どのような学生を育てたいのかを教師一人一人が本音で語り合う場面はないといってよいでしょう。指導する側にそのような体験がないのに子供たちに指導することはできないわけです。 いじめで生徒が亡くなった学校に赴任しましたが、生徒や保護者の学校への不信感はそれは大変なものがありました。最初の職員会で、目指す生徒像について職員が 本音で出し合う時間を持つように提案しました。当然、 「校長が出すからいいではないか。抽象的な話をしている時間はない。新年度を迎えるに当たり目の前にある、 決定していかねばならない議題が山ほどあるのに-----。」といった意見が出されます。それくらい新年度は忙しいのです。しかし、それを実行することによって、ベテラン教諭、指導力不足等々いろんな思いを知ることができ、また、いろんな悩みを抱えながらも頑張っているん だと、共通意識を持ってスタートすることができました。これは生徒にとっても同じことなのです。勉強のできない子、スポーツのできない子、勉強はできるが悩みを抱えている子、等々が本音で語ったとき、また、感動を語るとき、みんなの思いや経験を共有することがで き、驚くほどの成長がみられます。そういう場が今の日本の学校では足りないのではないかと思われます。ドラッカーが

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