国東の神代文字

 日本の歴史が消され続けている今、心ある人達で「真の歴史」を守っていかねばならないと思いますので是非読んでいただければ幸いです。

国東半島
大分県東国東群国東町の山中に神代文字で書かれた磐が見つかり、マスコミにも登場しました。町も教育委員会も「大変な発見だ、今後の観光の目玉にしたい」といった内容のコメントを出していたのを覚えています。しかし、いつの間にか沈静化し、当時私が所属する学校を管轄する教育委員会を通じて、国東町の教育委員会に対し、調査をしたいので情報がほしいと打診をしたところ、そういったものは教育委員会は関ってなく、場所も知らないといった回答でありました。電話もしてみましたが同じ回答でありました。
国東神代文字
どう考えても何処からか圧力がかかったとしか思えませんでした。日本の国体に関る、真実の歴史に関する歴史は長い間を通じて隠滅させられてきたと聞いております。国東の場合、もしかしたら、逆に守ろうとして隠されたのかもしれませんが---- ---。私が学生の頃、友人が発見した、広島のうが高原のピラミッドは、全国的に知られましたが、ほとぼりが冷めた頃、何者かによってわざわざダイナマイトで塔磐などいくつかの巨石が破壊されました。
国東の神代文字の磐について知っている人を一軒一軒訪ね歩き、奇跡的に探し出し、案内してもらいました。戦前まではサンカの数家族がふもとに住んでおり、その人達が神代文字を守ってきたとのことでした。民家の畑の中を通り20分ほど山を登ったところに神代文字の磐がありました。途中、古代の製鉄(タタラ)の途中で出たであろう鉄の塊(金クソ)が驚くほど多くあちこちに転がっておりました。
国東半島には紀元前7世紀に世界最大の製鉄遺跡があり、「鉄は赤土から採る」というソロモン王のタルシン船団(ヘブライ人、ヒッタイト人、フェニキア人)と同じ技法が使われていたそうです。
ソロモン王(紀元前970年から紀元前928年)の母は、製鉄で有名なヒッタイト出身ですのでタルシン船に製鉄技術者を乗せて東方に派遣したことは記録に残っています。(*聖書のヘテ人「ヒッタイト人」は、日本人であるという話も聞いたことがあります)契丹古伝によりますと、オッフル人(聖書の中のオフィルのことでプント・ソマリア人)が九州北部に上陸し、東表国(豊国)を作ったとあるそうですので、そういった記述が本当にあるのかどうか調べているところです。
2・3年前でしたが、地中海でフェニキアの船が発見され、その船に使われていた釘は全く錆びていなかったそうです。フェニキアの植民都市のインドのコーサラ国が、のちにインドのマガダ国に合併された後、そのマガダ国に建立された不思議な鉄柱は、外にありながらも現代でも錆びておりません。私が国東半島で見た、その辺に転がっている古代の鉄の塊もまったくさびておりませんでした。
日本に古代からあるヒヒイロガネも何千年経っても錆びることはありません。私は日本の製鉄技術がヒッタイトに伝えられたことは間違いないと思っております。物理学者の楢崎皐月氏が研究していた神代文字の古文献にはミトロカエシという錆びない製鉄の方法が書かれていたそうです。(*注1) 道教の古伝では『日本にアシア族がおり、「八鏡文字」を使って特殊な鉄をつくるなど、様々な生活技法を開発する高度な文明を持っており、それが神農氏らによって伝えられて中国文明の元になった』と伝わっていたそうです。 国東に書かれている神代文字はトヨクニ文字神宮文字と阿比留文字の組み合わせであります。その内容を紹介します。 この豊国文字(山窩文字)は逆にすると古代ヘブライ文字になるのです。 天皇の名前らしき左の写真の文字はトヨクニ文字で読めますので比べながら読んでみて下さい。
国東神代文字
写真は「トミアキタラシナカオキ???ウ」 と読めると思います。
実際に竹之内文献では、ウガヤフキアエズ朝の25代が「富秋足置天皇」と記されています。(*竹内文献では神武天皇はウガヤフキアエズ朝第73代・皇統第98代・神倭1代となります。)
天皇は天越根中見神日高見神明皇祖皇太神宮(高山)にて即位され、皇子を派遣し万国五色人に神代文字を教えたとあります。
「天皇、ケサリ月三日マテカ国バタニ水門より、豊日別豊前高田(国東半島)に帰り文殊山(国東半島)へ帰京。」とあります。また、「葬る所を冨塚という。後改め藤井といい、改め冨塚山といい、後に改め富山という」と書かれています。
国東神代文字
この遺跡と古文献の一致に身震いする思いでありました。この里山のふもとにはかつて「皇居広場」と呼ばれていた一角があり、 近年まで神事が執り行われていたといいます。
その神事を取り仕切っていたのが藤井氏であったそうです。神代文字の書かれた岩の横には「〇山陵 富山」と彫り込まれた石柱がたてられています。〇は高貴方の墓を意味するそうです。
写真には南面に神代文字35文字が書かれています。神宮文字と阿比留文字の組み合わせのようです。
国東神代文字
そ こをやき
よ きちほれ
し もはとく
ひわのかみのりよ
し ふきあえす
ね つきよだい
てむだ
『この場所を焼き、大地を耕せ。霜害に遭わぬよう太陽神を祀れ。これは不合25代天皇の言葉である』 という訳になるようです。
ちなみに徐福が記録したという「富士古文書」では、神皇第25代ウガヤフキアエズノミコトの皇子は「宇佐彦」と呼ばれていたとの記述があります。国東半島の多くは宇佐神宮の領地でもありましたので古文献は真実を伝えていることを痛感いたしました。 時代的に見ると8000年以上前のことと思われますが、普通は風化してしまうものです。しかし、長い間この磐は守られてきたようです。次のような話があるそうです。
『文字が刻まれた巨石は昔から土地の者には知られてはいたのだが、50年くらい前のある日、謎の僧侶が地主の家に立ち寄り、「この近辺になにか奇妙なものはないだろうか? 見つからなければ大変な事になる」と深刻な面もちで探しに来たという。そこでこの岩のことを教えると、1週間かけて風化していた文字を彫り直し去っていったのだそうだ。確かに60年前に村人が見た当時はもっと薄かったそうである。』山の民「サンカ」のように全国にある巨石に刻まれたメッセージを50年~100年単位でメンテナンスしているグループがいるという話を聞いたことがあります。神武天皇以前の歴史を認めようとせず、それを破壊しようとする一派も存在することは間違いないようです。この巨石から50メートルほど下ったところに同じ大きさの巨石があり、そこには人為的に深くノミで削られたような跡が残されております。文字が消されたのかも知れません』
吉田信啓著「神字日文考」からの引用です
「葬る所を富塚と云う。のち改め藤井と云い、改め富塚山と云い、のちに改め富山と云う」という記述は私を驚かせた。神代文字磐の南側にある立岩にくっきりと、「富山」という文字が「山陵」という文字の右下に彫ってあったことを思い出したからである。その立岩の左横には朽ちた木の柱が写真でも分かるが、きっとその標柱には、「富塚」とか「藤井」とかの文字が彫ってあったのだろう。この「藤井」という名称にも重要な意味が隠されている。それは二月二十一日朝に岡崎正義医師から入った一通のファックスのレポートから始まる。岡崎医師は一月十六日に確認され、大きく新聞報道されたことで急速に浮上した「八乙明見の神代文字磐」についての近郷住民の反応を調査した。その動機は「いつ、誰が、なぜ、神代文字を磐に彫ったのか?」を知るために、近郷に何らかの伝承があるのではないかと考えた。聞き込みは地元の発見者である溝部安司さんが請け負った。その聞き込み調査で、八件の証言が出てきたが、その中に信頼度の高い二件があった。一つは、「昭和三十年から三十三年の頃、四国遍路姿で、夏、蚊の駆除に干しヨモギを焚きながら磐に何かを彫っている人がいた。何をしているのか、あなたはどこから来たのかと聞くと、しゃくま尺間さまから来た。文字が風化しつつあるからはっきり見えるように彫っているのだと言っていた。その二人は手にタガネを持っていた」というものである。また、もう一件は、藤井キヌという婦人の証言で、「尺間さんから来たという山伏姿の二人が一週問くらい私の家で寝泊まりして、昔彫ってあった字が分からなくなってきているので彫っていった」と言う。みなみあまべ「尺間さん」というのは、大分県南海部郡弥生町上小倉の尺間山(六四三メートル)にある尺間神社のことで、火の神、知恵の神、五穀豊穣の神を祭っている。私は二月二十六日の朝十一時、神代文字磐の前でその藤井キヌさんに会った。その日私は、新聞報道で地元の大発見の価値に目覚めた関係者に午前中、「現地説明会」を開いた後、午後は国東町中央公民館で国東史談会の主催で「八乙神代文字の背景と意義」の講演をすることになっていて、そのための現地入りだった。その企画に先だって西日本スポーツ新聞の一面カラー特報記事に触発されて、福岡市のRKB毎日放送の梶原稔生ディレクターが一月二十九日にやって来て、「神代文字磐を話題の発端としたペトログラフロマンの特集番組を十五分もので制作し、三月十一日に放送したい」と、企画協力を持ち込んで来ていた。私は下関市彦島、北九州市門司区藤松、北九州市小倉北区赤坂・松柏園ホテルなどの主だったペトログラフ遺跡を案内した後で、「実は近いうちに国東町と安心院町で神代文字磐に関する現地説明会やペトログラフ探索会、講演会が予定されているので、スケジュールが合えば、その日に同行取材してはどうですか」と密着取材を提案していた。藤井キヌさんの重要証言も、テレビカメラの前で直接、現場で収録することを打ち合わせ、ご本人にも協力を要請していたのである。その朝十時、国東町下成仏の北国崎小学校には約五十人の郷土史に関心のある人々が集まっていた。小学校から現場までは人家の間の通路を抜け、雑木林の急な細道を二十分ほど歩かねばならない。テレビカメラが田舎では稀な大行列を収録していた。神代文字磐の前に着くと、別の近道を通った藤井さんは既に待っていた。「この磐の文字は神代文字という割には新しい感じがしますが、いつ頃彫られたものなのでしょうか?」と、参加者の中から前列に出てきた男性が質問した。「それについては、最適の答えをして頂く方に来て頂いています」と紹介され、「私は小学校四年生の頃、この山の麓で暮らしていましたが、私の家に二人の白装束の山伏風の人がやって来て、この辺りに古い文字を彫った大きな岩があるはずだ。その岩の文字が薄くなってきているから、彫り深めてやらねばならないと言って、一週間くらい私の家に泊まって山で作業していたようです。私は小さかったから、直接その二人と話したり、作業場に来ることはなかったのですが、父や母がその人達と話すのをそばで聞いていましたから覚えています」と証言してくれた。その様子を梶原ディレクターはしっかりと撮影し収録させた。 藤井さんの話では、藤井家はもともと「藤井」ではなくて、「富塚」とか別の姓の家が数軒あったという。これは非常に貴重な証言である。なぜなら、『上記』や『竹内文献』によれば「官田金足長息天皇は富塚に葬る」とあり、その富塚がどこにあったのかは記されてはいない上、前にも述べたように、「富塚」は後に「藤井」と改められ、更に「富山」と改めたとある。上代では天皇陵の墓守として山窩(さんか)の一族を配置し、山陵の管理に当たらせていた。溝部安司さんの家柄は、「紀氏」といって、豊前豊後では最も古い家系とされているが、この「紀氏」とは「忌氏」のことであり、四国は徳島県の高所山岳地帯に本拠を持ち、上代から大嘗祭のたびに麁服(あらたえ)の麻布を献上していた忌部氏(いんべし)の流れである。 この忌部氏のアラタエ献上の伝統は、今もなお忌部氏の子孫の三木家が踏襲し、徳島県美馬郡木屋平村で栽培した麻を紡ぎ、麻植郡山川町にある機織場でアラタエにして大嘗祭に献上していると、初めて私が徳島県の美馬チャレンジ会議の招きで現地を訪れ、忌部神社裏手の磐座を調査したとき、斉藤衛・貞光町町会議員が説明してくれた。三木家からは三木首相が出ている。この「三木」の「木」も、溝辺さんの系譜の「紀」と同じで、その源流は、「木」であり、「木氏」(きじ)とは「和血」を扱う山岳文化集団の山窩やマタギなどの日本上代からの部族である。つまり・木、忌、斎、紀と文字柄を変えたものに過ぎない。飛騨高山では木、忌、斎、紀が律令国家の神祇を亀卜(きぼく)を司ったト部(うらべ)になり、トは、吉と変わって吉氏(きし)から吉田氏となったという。卜部氏は律令国家時代に、ほぼ全国で神祇官を務めた。ト部(うらべ)神道(吉田神道)の流れとして、相撲の行司や横綱を任命した吉田司家が熊本県に命脈を保っている。木氏から紀氏への流れを継いだ溝部安司さんや地元の公民館長等が、「この山麓には五、六軒の山窩(さんか)の人々が住んでいました」と言っていたのは、まさしくウガヤフキアエズ王朝第二十五代… 引用以上//
国東神代文字
大分県には『上記』(ウエツフミ:大分県立図書館蔵)という神代文字で書かれた古文書が存在しています。国東半島の磐に彫られたものと同じトヨクニ文字で書かれております。この漢字以前のトヨクニ文字は大野市の尾平鉱山の石碑、臼杵城石垣、鳥取県板谷神社石壁、宮崎の天岩戸神社蓋石、北朝鮮平城の洞窟等に書かれているのが残っております。
ウエツフミ
『上記』は古事記、日本書紀以前の伝書(ツタヘフミ)であり、 神話、伝承の他に、民俗、習俗、度量衞、地理、言語、暦制、天文、教育、医薬、医学など多岐にわたり記されており、古代の百科事典ともいえる文献であります。天保2年(1831年)、鎌倉幕府を開いた征夷大将軍源頼朝の子で豊後の国守大友能直が、学識のある家臣達を諸国に派遣し古代資料を集めさせたものに、領内の老人から古代伝承を聴きとらせたものを加えて上記を編纂したとされています。 「神代文字」で書かれた「新治の記」、「高千穂の大宮司の伝書」、「日向国主元雄の伝書」を基本に各地の古文書を総合したものだそうです。
ウエツフミ
しかし、大友能直は「豊国文字」でかかれた古文書を奪うべく1600 人ものサンカの人達を虐殺したという言い伝えもあります。そのため、サンカの人達は文字を他の人達から隠し、お互いは「あぶり出し」でしか読めない仕組みにしてい194るそうです。
文献には和気清麻呂が署名した神代文字もあり「ワカミカトハ、アマツチノハシメヨリコノカタ、キミトヤツコトサタマレリ」とかかれています。「我が帝(王朝)は天地の始よりこのかた、君(天皇)と奴(臣下)が決まっている」とあります。有名な道鏡が皇位を奪おうとした事件が思い起こされます。『上記』によると神武天皇以前に72代にものぼるウガヤフキアエズ朝が存在し、その25代にやはり「富秋足中置天皇」の名があります。各古文献に共通しているわけです。何処の段階でこのように歴史が書き換えられたのでしょうか。
竹之内文献によりますと次のように述べられております。
『大泊瀬初天皇、即位二十一年、ムツヒ月(1月)コモリ1日、真鳥の宿禰に命じ、天之御中主天皇より、佐野天皇(神武天皇)までの皇統譜を、而も真鳥の宿禰の一旦写し取りたるものを写し取らせよと勅令あり、其の一部を大伴室屋、葛城円、物部目蓮、巨勢男人、蘇我韓子の5名に写し与えたり。当時宮中にて非常な勢力を持っていた、三韓の子孫、蘇我の韓子が神国日本の皇統譜を奪い取らんとの野心あり、天皇に願い、皇統譜を是非写し与えられたしと言上せる為、真鳥の宿禰にこの旨を含め、天之御中主天皇以前の神代に通ずる莫大な歴史、而も五色人の祖は、ことごとく削り取れと命じ、短い皇統譜を写し取りたるものを写し取らせたり。』
ウエツフミ
したがってウガヤフキアエズノミコトは現代の歴史上では御一方の尊となっていますがその間72代もの天皇が存在されており、これをウガヤフキアエズ朝といいます。神代においても各天皇の代は一代のみではなく何十代と続いています。例えばイザナギ天皇の御代はイザナギ朝といい16代もの天皇が即位されたと書かれております。
現在の左翼思想に偏った日本語学界、歴史学会の世界では、漢字渡来以前の日本に固有の文字は存在しなかったとしております。そのように言っている人達はそれらはすべて偽造されたものだというのです。
では誰がどういう目的で北海道から九州まで、そして外国まで(世界中で日本の神代文字が発見されております。)岩に彫ってまわり、わざわざ古文献や各地の神社に偽造したものを残していったというのでしょうか?第一不可能なことであります。このように歴史学会と呼ばれるところでは誰が考えてもおかしいことがまかり通っているのです。
『古事記』は、稗田阿礼が記憶していたことを暗誦し、それを太安万侶(おおのやすまろ)が漢字で書き留めたとされていますが、「目に度(わた)れば口に誦(よ)み」「帝皇(すめらみこと)の日継(ひつぎ)及び先代の旧辞を誦(よ)み習はしむ」と書かれており、稗田阿礼は暗誦したのではなく、「種々の文字で書かれた書を声に出して読み上げた」とも解釈できます。神代文字には大変多くの種類があります。阿礼はその様々な神代文字を読むことができ、阿礼が読み上げる伝承を元にして、漢語に勝れた太安万侶が漢字を使用して編集したということかもしれません。直接書き写せばすむところをわざわざ一度阿礼に覚えさせてからもう一度書き写すというのも理由が見当らないからです。

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