世界の偉人たち「驚きの日本発見」

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
(1539~1606年)

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

「人々はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。一般庶民や労 働者でもその社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のようにみうけられる。この点においては、東洋の他の諸民族 のみならず、我らヨーロッパ人よりも優れている。
国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供たちは我らの学問や規律をすべてよく学 びとり、ヨーロッパの子供たちよりも、はるかに容易に、かつ短期間に我らの言葉で 読み書きすることを覚える。また下層の 人々の間にも、我らヨーロッパ人の間に見 受けられる粗暴や無能力ということがな く、一般にみな優れた理解力を有し、上品に育てられ、仕事に熟 達している。 …(米しか作られない)したがって一般には庶民も貴族もきわめて貧困である。
ただし彼らの間では、貧困は恥辱とは考えられてはいないし、ある場合には、彼らは貧しくとも清潔にして丁重 に待遇されるので、貧苦は他人の目につかないのである。貴人は 大いに尊敬され、一般にはその身分と地位に従って多数の従者を 伴っている。 (中略)日本人はきわめて忍耐強く、飢餓や寒気、また人間としてのあらゆる苦しみや不自由を堪え忍ぶ。それは、もっとも身 分の高い貴人の場合も同様である。が、幼少の時から、これらあらゆる苦しみを甘受するような習慣づけて育てられるからでしょう。」

【出典:『日本巡察記』ヴァリニャーノ著、松田毅一他訳 (東 洋文庫229 平凡社)】

ヴァリニャーノはイタリア出身のイエスズ会司祭で、巡察師として三度来日し、キリスト教の布教事業の指導的役割を果たした 人物です。
1539年にナポリ王国のキエーティ市で名門貴族の家 に生まれ、パドヴァ大学で神学を学んで1566年にイエスズ会に 入会しました。その非凡の能力を認められ、1579年(天正7年)に 巡察師として初めて日本を訪れ、織田信長に歓迎されて「天正遣 欧少年使節行」を立案・実施しています。
この第1回目の日本巡 察に基づいて1583年に執筆されたのが『S.I.SUMARIO de las cosas de Jap?n(日本諸事要録)』です。本書は長らくイエスズ会の機密文書として眠っていましたが、1954年に『日本巡察 記』として出版されました。
ローマカトリックの内部文書なので 日本人に媚びる必要などなく、第三者的目線で書かれている訳で すが、当時の日本人を非常に高く評価しています。
この本には「・・・賢明で遠慮深く、かつよく学ぶことは驚嘆 するばかりである。子供でも大人のように三、四時間もその席から離れないで勉強している」と書かれており、日本人は400年以 上も前から極めて勤勉であったことが伺えます。
1590年にはわが国で初めての「活字印刷機」を携えて来日し、これを使って後 に「キリシタン版」とよばれる書物が出版されました。
【参考:(1) http://www. http://ja.wikipedia.org/wiki / ヴァリニャーノ、(2) http://www7.plala.or.jp/juraian/ jpnrep.htm#Valignano】

アルベルト・アインシュタイン
(1879~1955年)

アインシュタイン

「近代日本の発展ほど世界を驚か せたものはない。一系の天皇を戴い ていることが今日の日本をあらしめ たのである。私はこのような尊い国 が世界に一ヶ所ぐらいなくてはなら ないと考えていた。世界の未来は進 むだけ進み、その間幾度か争いは繰 り返されて、最後に戦いに疲れる時 が来る。その時人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この 世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国 の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄でななくては ならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。 それにはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。わ れわれは神に感謝する。われわれに日本という尊い国を 創ったことを。」
(出典:『「日本文明」の新価ー今、世界 が注目する』清水馨八郎著、詳伝社黄金文庫)
1879年(明治12年)ドイツで生まれたアインシュタイン は、5歳まではあまり言葉を話さず読字障害であったとも 言われています。
しかし、5歳のとき父からもらった方位 磁石がきっかけで自然界の仕組みに興味をもつようにな り、ユークリッド幾何学や微分積分学などを寝る間も惜し んで独習し、数学には突出した才能を示したようです。
チューリッヒ連邦工科大学を卒業後、スイス特許庁に就職 し、奇跡の年と称される1905年には「光量子仮説」「ブ ラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関する5つの重 要な論文を発表しています。
アインシュタインは1922年(大正11年)11月17日に日 本を訪れた際、訪日する船の中でノーベル物理学賞受賞の 知らせを受けました。日本には43日間滞在しています が、帰国間際の12月23-27日には門司や博多を訪れ、福 岡市大博劇場で一般講演も行っています。
上記の言葉は、アインシュタインが離日直前に新聞に寄 稿した文章とのことで、清水馨八郎氏の著作に「アイン シュタインの予言」として紹介されているものです。明確な出典が不明なため創作であるとの指摘もありますが、いずれにしろ上記の文章は、われわれ日本人の使命を再認識する上で、今こそ日本人一人一人が 噛み締めるべき重要なメッセージのように感じます。

イザベラ・バード
(1831~1904年)

イザベラ・バード

「私は日本の子どもたちがとて も好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。日本では孝行が何ものにも 優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。英国の母親たちが、子どもを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景は、日本には見られない。 私は、子どもたちが自分たちだけで面白く遊べるように、うまく仕込まれているのに感心する。家庭教育の一 つは、いろいろな遊戯の規則を覚えることである。規則 は絶対であり、疑問が出たときには、口論して遊戯を中 止するのではなく、年長の子の命令で問題を解決する。 子どもたちは自分たちだけで遊び、いつも大人の手を借りるようなことはない。」
(出典『日本奥地紀行)』平凡社)

イザベラ・バード
イギリスの女性旅行家で紀行作家のバードは明治11年 (1878年)に東北地方や北海道、関西などを旅行し、その旅行記"Unbeaten Tracks in Japan"(邦題『日本 奥地紀行』)を執筆しました。日本の地方の住居、服装、 風俗、自然などが詳細に書き留めてあり、明治維新当時 の日本の情勢を知ることのできる貴重な資料となっています。バードは「ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や 侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられるのであ るが、ここ(日本)で私は、 一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない。群 衆にとり囲まれても、失礼なことをされることはない。 (中略) 彼らはお互いに親切であり、礼儀正しい。それ は見ていてもたいへん気持ちがよい」と日本人を絶賛 し、米沢平野の光景を「鍬で耕したというより鉛筆で描いたように美しい。まったくエデンの園である」と記しています。

ヴァーシリィ・ゴロヴニン
(1776~1831年)

ヴァーシリィ・ゴロヴニン

「日本の国民教育については、全体として一国民を他国 民と比較すれば、日本人は天下を通じて最も教育の進んだ 国民である。日本には読み書きの出来な い人間や、祖国の法律を知らない人間は 一人もいない。」 「日本人は農業、園芸、漁業、狩猟、 絹および綿布の製造、陶磁器および漆器 の製作、金属の研磨については、殆んど ヨーロッパ人に劣らない。彼らは鉱物の 精錬もよく承知して居り、いろいろな金 属製品を非常に巧妙に作つている。指物および轆轤(ろく ろ)業は日本では完成の域に達している。その上、日本人 はあらゆる家庭用品の製造が巧妙である。だから庶民にと つてはこれ以上、開化の必要は少しもないのである。」 「日本人はあらゆる階級を通じて、対応が極めて丁重で ある。日本人同志の礼儀正しさは、この国民の本当の教養 を示すものである。」
(出典:『日本幽囚記』ゴロヴニン著、井上満訳、岩波文庫)

ヴァーシリィ・ゴロヴニン
ロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人で冒険家のゴロヴニンは、1811年(文化8年)に軍より命じられて千島列島の測量に向かった際、国後島で幕府の捕虜となり二年余に渡って函館と松前に幽閉されました。これは、ロシア使 節レザノフが日本に武力行使で通商を認めさせようと、ロシア政府の許可を得ずに択捉島の日本人部落を襲った蛮行事件が発端で、厳戒態勢中の国後島に上陸したロシア皇帝 艦長ゴロヴニンが捕虜となり抑留された「ゴロヴニン事 件」として知られています。 ゴロヴニンは帰国後の1816年に日本での幽閉生活をまとめた『日本幽囚記』をロシア海軍印刷局から出版しましたが、この本は直ちにヨーロッパ各国に翻訳されてベストセラーとなり、日本でも1825年に訳本が出版されています。本書の中でゴロヴニンは、日本人は天下を通じて、礼 儀正しく、最も教育の進んだ国であると紹介しています。 例えば、「日本人は自分の子弟を立派に薫育(徳をもって人によい影響を与え、教え導く)する能力を持っている。ごく幼い頃から読み書き、法制、国史、地理などを教え、大きくなると武術を教える。しかし一等大切な点は、日本人が幼年時代から子弟に忍耐、質素、礼儀を極めて巧みに教えこむことである。われわれは実地にこの賞讃すべき日本人の資質を何度もためす機会を得た。」と書いています。江戸後期のこの時代にすでに十分な知育を施していただけで なく、武術による体育、さらには躾などの徳育までもが組み込まれ、知育・体育・徳育の三位一体となった教育が行われていた訳です。このような三位一体の教育が近代化へと繋がる激流を生んでいったことに私たちはもう一度刮目すべきでしょう。

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